聖書も神の力も知らない 31
まだまだ思い当たるままに記してみている。
が、もうそれを明かしても、
何の意味もないような気がしてきた。
本人が悔い改めない限り、教訓にもならないのだ。
せいぜい、似たような事態がほかにもしあった場合、
それはやはり間違いなのだ、と
誠実な人を助ける意味はあるかもしれないが、
当の本人のほうは何も変わることはないだろう。
信じるということは、自分が変わるということなのであるが、
この人の場合は、今のところどうしようもないとしか言えない。
ここで幕を閉じようと思う。
そして最後に、精一杯の祈りをささげよう。
およそ、ありえないことばかりが、起こっている。
それは、スタートから間違っているからである。
私は、まだ今なら、その罪は赦されると思う。
いや、救われてほしいと願う。
しかし、これ以上方向を180度転換しないならば、
本当に神の審きの現場を人は見ることになるだろうと思う。
聖書を丁寧に読むかぎり、そういうことがはっきりする。
申命記では、祝福の道よりも、
主に従わない者が受ける罰についての規定のほうが、
何倍も多く記されているのだ。
それほどに、主に敵対する者が過去もいたということを示すのだろう。
だが、人に敵対する者を人は容易に愛することはできないにしても、
主はそれをなす方である。
ただしそのためには、悔い改めなければならない。
かの「牧師」は、それをしたことがないはずである。
詩編や理屈だけのキリスト理解では、
神は義なる厳しい神ではあっても、
赦しの愛の神ではあるまい。
愛だと捉えているものは、
母親に対する依存心だけでしかないことに、
本人がまず気づくことが必要である。
少なくとも、
聖書を読まない者、聖書を知らない者が、聖書を騙り、
自分の見栄を満たすために
偽装のキリスト教を掲げてはならないのだ。


野のゆり様†主の平和†
暫く続いた、教会と牧師先生のシリーズ物が終わり、安堵と心配の気持ちでおります。
野のゆり様の憤りは文面から察しておりましたが、野のゆり様が書けば書く程に御自分を自分自身で傷つけて行かれている様で、辛い気持ちになりました。
その、牧師先生と教会の事は、主に御任せ致しましょう‥神様は決して悪いものを御渡しになりませんから、必ずその牧師先生も主の福音の音色を聞く時が訪れる事と思います。
ですから、野のゆり様に於きましては、心を傷める事なく祈りの内に、その牧師先生と教会をそして信徒の方々の為に祈られる事を‥そしてなによりも野のゆり様の霊魂に安らぎと平安が訪れる事を、小さな祈りですが、祈らせて頂いております。
イースターも終わり、全てが新しくなる様に、聖霊の熱い息吹で強められます様に‥私たちの主イエス・キリストによって アーメン†
投稿: インマヌエル・マリア・ラファエル | 2009年5月 9日 (土) 23時41分
ありがとうございます。その通りなんですね、そして、祈りの中で神にぶつけるごとく、ある意味で吐き出すようなことも、どこかで必要だと思ったわけです。まわりで見ている人は不愉快だったことだろうと思います。感謝です。平安は戴いております。
自分が何かをされたとか、自分の不利益とか、それについては、私は残らないのです。それは呟かないつもりでした。この事態がいけないのは、ほかの多くの人々を巻き込んで混乱させ、嘘の中に引きずり込んでいることです。私は、単純に、その人たちをただ主に委ねてよい、とはどうしても思えませんでした。
自分の力に頼ろうとは思いません。しかし同時に、自分が気づいておきながら何もしない、というのが常にベストだとも思えません。神はなぜこの思いを私に与えたのか、それも信頼します。そして、自分が怒りの渦の中に落ち込んで抜け出せなくなるようなことのないだけの愛を覚えながら、今日も主の言葉から大切なものを受けたいと願っています。
愛する兄弟たちが、誤った福音にかき乱されていることの怒りを、パウロはガラテヤ書でぶつけていました。パウロという人は、私などよりよほど怒りに包まれ燃え上がる人です。しかし、パウロは一つの福音にすがり、そして教会の人々を愛していました。自分を理解してくれないコリントの教会へは、度々書簡を送りました。
それにしても、 インマヌエル・マリア・ラファエルさんの落ち着かれた信仰を与えてくださった主を、讃美すべきです。主が豊かに祝福してくださいますように。
投稿: 管理人 | 2009年5月10日 (日) 09時34分
こんばんは、レスを返して頂き、正直ホッとしました。
blogの更新もされていなかったので‥心配していたんです。
ガラテア書には、パウロの全てが込められていますね、大好きな書簡です
1コリもあの13章があまりにも有名なので、パウロの苦悩を気付かない方もいらっしゃいますが、カトリックでは、去年の6月から今年の6月まで聖パウロ年なのです、ですからカトリック信徒も及ばずながら、パウロを学んでたりするんですよ(笑)
俺の信仰なんて、フラフラの迷いばかりですよ
でも、悩んでも、フラフラでも最後は全て主に委ねます。
自分じゃ髪の毛一本、思いのままに出来ないんですもんね。
ありがとうございました。
投稿: インマヌエル・マリア・ラファエル | 2009年5月10日 (日) 19時33分
ご心配をおかけしました。
ひとつ区切りを入れました。
聖パウロ年については存じております。指導者たちにはまたいろいろな思惑があるのかもしれませんが、神はさまざまな形でそういう機会を用いられるでしょう。パウロは、書簡の中で、目の前の事態に対応して相談にのっているようでありながら、その目はつねに終末に注がれています。終末しか見ていない、とさえ言ってよいかと思います。それもまた必要なことです。と同時に、同じく目が釘付けにされるのならば、釘付けにされた十字架のイエスに、目が釘付けにされるということも、外せないところでしょう。
私たち人間が神を信じるということにばかり気をとられると、情けなく悲しくなりますが、神が人間を信じているという構図に気づくと、楽しくなります。パウロは、そこもちゃんと見ているんですね。
6月までと言わずに、どこまでも、聖書に沿って、聖書から、聴いていきたいものです。感謝です。
投稿: 管理人 | 2009年5月11日 (月) 10時41分