2009年5月 1日 (金)

聖書も神の力も知らない 31

まだまだ思い当たるままに記してみている。
が、もうそれを明かしても、
何の意味もないような気がしてきた。
本人が悔い改めない限り、教訓にもならないのだ。
せいぜい、似たような事態がほかにもしあった場合、
それはやはり間違いなのだ、と
誠実な人を助ける意味はあるかもしれないが、
当の本人のほうは何も変わることはないだろう。
信じるということは、自分が変わるということなのであるが、
この人の場合は、今のところどうしようもないとしか言えない。
 
ここで幕を閉じようと思う。
そして最後に、精一杯の祈りをささげよう。
 
およそ、ありえないことばかりが、起こっている。
それは、スタートから間違っているからである。
私は、まだ今なら、その罪は赦されると思う。
いや、救われてほしいと願う。
しかし、これ以上方向を180度転換しないならば、
本当に神の審きの現場を人は見ることになるだろうと思う。
聖書を丁寧に読むかぎり、そういうことがはっきりする。
申命記では、祝福の道よりも、
主に従わない者が受ける罰についての規定のほうが、
何倍も多く記されているのだ。
それほどに、主に敵対する者が過去もいたということを示すのだろう。
だが、人に敵対する者を人は容易に愛することはできないにしても、
主はそれをなす方である。
ただしそのためには、悔い改めなければならない。
かの「牧師」は、それをしたことがないはずである。
詩編や理屈だけのキリスト理解では、
神は義なる厳しい神ではあっても、
赦しの愛の神ではあるまい。
愛だと捉えているものは、
母親に対する依存心だけでしかないことに、
本人がまず気づくことが必要である。
少なくとも、
聖書を読まない者、聖書を知らない者が、聖書を騙り、
自分の見栄を満たすために
偽装のキリスト教を掲げてはならないのだ。

2009年4月30日 (木)

聖書も神の力も知らない 30

教会がかなり危機的な状況になって、
もっと福音を強く語ってください、と心ある人に要求されたとき、
何と言ったか。
まず、やたら大きな声で話をした。
そして、コリント13章の「愛」のところに
自分の名前を入れるのが聖書の素晴らしい読み方です、と
ものすごい真理を見出したかのように明るく語り出したという。
まるで、億や兆のような大きな桁の数は、
「4桁ずつ区切りの線を入れると読みやすくなるんです、
 すごいですよね、ほんと、こんないい方法があるんですよね」
などと塾で自ら感動して教える者のようだが、
アルバイト学生でもそんなことで喜んだりはしないはずである。
 
ところが、明るく元気にこう語る息子を見て、
その母親が、いたく感動した。
母親は、遠方に住んでいるが、
月に一度は息子のところにくる。
自分の息子が牧師をしているという
自分の虚栄心を大きく満足させるのであった。
いわばこの息子をこのようにした当人なのであるが、
もちろんそのような自覚はない。
元気に大きな声で喜んで語る息子の姿に感動した母親は、
礼拝終盤の祈りにおいて、
もう感動の涙で感謝の祈りを捧げた。
その後、教会が傾いて経営的に破綻に陥ったとき、
なんとか牧師給与だけでも補助しているのは、
この母親の差し入れであることは、
はたして教会員のどれほどの人が熟知しているのだろう。
どこからか不思議な献金がいつもあって、
教会の必要が満たされている、と数字の上では現れてくるのであるが。

2009年4月29日 (水)

聖書も神の力も知らない 29

問題の「牧師」のほうにもう一度大きく舵を取ろう。
とにかくこの人の説教には、聖書が出てこない。
イエスに出会った「有名な人物」のことは、
実に事細かに調べて話す。
しかし、自分がイエスに出会った話は、一度たりとも出てこない。
当然である。一度も出会っていないのだから。
それで、他人の信仰体験談をネタに話すしかないのである。
しかも、聖書を探究するつもりもないのだから、
まるでアルバイト学生が急遽塾で勉強を教えるようなものである。
ひととおり教科書的な知識はあるのだが、
教育の経験がないと、通り一遍の上っ面を語ることしかできない。
この「牧師」の場合も、そうであった。
聖書をいくら開いても、生き生きと理解できるものがないのである。

2009年4月28日 (火)

聖書も神の力も知らない 28

あの「牧師」が、
どうしても必要だと言って、強引にその人を「伝道師」にしたのだ。
教会員からは、反対の声も挙がっていた。
それは、もちろん当人の資質にもよるものであったが、
あまりあからさまに人物としてダメだなどとは言わなかったのかもしれない。
事実教会財政もたしかに逼迫していた。
牧師給与も出せないような事情であったから、
とても伝道師のための費用など出せないのだった。
しかし、「牧師」がひとりで抑え込んで、「伝道師」を抱えることに決まった。
教会員は、これで「牧師」がへそを曲げて、
無牧にでもなったら困るという心理があった。
そこを突いたと言えるかもしれない。
さらに、客員として教会のために有力な働きをしていた信徒がいたのだが、
その人に対しては、教会員が皆その人を伝道師として賛成している、と
嘘をついていた。
おそらく、精神的に、
自分が嘘をついている、などという意識すらないのだろう。
妄想癖などのために、嘘とは考えていなかったのだろう。
しかし、その客員は、自分としてはあの人は伝道師としては不適格だと思うが、
教会員全員が賛成しているなら仕方がない、と考えさせるをえなかった。
その嘘のために、教会が大きく傾くこの瞬間を迎えることとなった。

2009年4月27日 (月)

聖書も神の力も知らない 27

「伝道師」は、同類のいくつかの教会を渡り歩いたが、
どこでも煙たがられていた。
そこで、この「牧師」に掘り出し物だと喜ばれて
「伝道師」に招かれるまでいた教会の牧師は、
「伝道師」の華々しい就任式の場で、
「ほんとうによかった!」とその「伝道師」と固い握手をした。
あれは、心ある人が見たとき、その異様さからすべてが分かっていた。
「わたしの教会の伝道師でなくて、そちらでほんとうによかった」のである。
だから、肝腎のその教会員からは、
新しい「伝道師」に対する祝辞は、
いくら求められても、誰も何も言わなかった。
それがおかしいことは、分かっていたのである。

2009年4月26日 (日)

聖書も神の力も知らない 26

この「伝道師」、
どうしようもないという言葉が似合う存在である。
が、かの人には、自分に共感して力を貸してくれる同胞であった。
「掘り出し物」だと喜んでいた。
定年退職後、なんとなくまわりの勧め(多分におだて)もあって、
神学校に一年だけ通った。
これで、自分は並の信徒ではなくなった、と勘違いした。
自分は特別な勉強をしたのだから、自分の思うとおりにやっていく、と
総会の場で公言したこともある。
それは、他の人が見るに見かねて苦言を呈したときである。
 
この「伝道師」についてのエピソードを加えると、
この指摘もまだ一年間ほどこの調子で続きそうである。
それくらいに、
どうしようもないという言葉が似合う存在である。
根底には、コンプレックスというものがある。
それが、聖書を読んだとき、
弱い自分が強くなれる、と錯覚した。
なんだか心が洗われるような思いがしたというが、
それは自分の劣等感がなくなったということに違いなかった。
それを、救いだと勘違いしたのである。
そして、これがあの「牧師」との共通点ともなりえた。
心の弱さを克服することこそキリスト教である、
しかしイエスと出会ったことがなく、
イエスを神だというのが分からない。
そういうあたりで、気が合ったのだろう。

2009年4月25日 (土)

聖書も神の力も知らない 25

あるとき、
イエスは神でない、と
つい本音を口走ってしまったことがある。
これに、若い女性が敏感に反応して、泣いた。
だが、この人にとって、それは真理であった。
どうりで、その前に、エホバの証人に非常に好意的に話すことがあった。
エホバの証人からプロテスタントに移ってきた人の
心の苦悩なども、理解できるはずもなかった。
この人は、エホバの証人と同じような理解をしていたのである。
 
しかも、さすがにこの号泣の件はまずいと思ったのだろう。
いろいろ策を練り、
そんなことは言わなかったことにしよう、と
ある人物と揉み消しにかかった。
その人物とは、
かの「牧師」が強引に招いた「伝道師」である。

2009年4月24日 (金)

聖書も神の力も知らない 24

この人の関心は、このようにして、
結局のところ、自分自身に向かっている。
つねに、自分自身のことしか気にしていない。
信徒が悩みを打ち明け、自分の過去をすら打ち明けてくる。
それは話すその人のことを少しでも思いやるならば、
「ええっ、そうだったんですか」とか
「それは大変だったでしょう」とか
そんな言葉が反応して出てきそうな内容である。
あるいは、冷静に聞く牧師がいても当然よいのだが、
十分聞いた後に、聖書だとこうなっています、とか、
知っている人にこういう人がいました、とか、
そんな言葉が返ってくることも、あるだろう。
しかしこの「牧師」は違った。
印象からすると、「ふうん」程度なのである。
当然である。
キリストに従う人の悩みが、分かるはずがないのである。
自分でサッカーをしたことのない人が
サッカー選手から悩みを相談されても、応えられないのと同様である。

2009年4月23日 (木)

聖書も神の力も知らない 23

聖書を原理としないで、
聖書を道具として利用していくというのは、
これまでも多くの人間や団体が陥った誤りであるが、
当人たちは、しばしばそのことに気がつかない。
むしろ、自分たちの聖書解釈こそ真実であり、
これまでのものが間違っていた、と言うようになる。
異端の中には、今にして思えば同情的なものもあるが、
たしかにとんでもない異端が多かったのは事実だ。
その異端は、殆どそのパターンで自分が聖書の上に立っている。
かの「牧師」の場合、
イエスに出会ってもいないのに、
自分の心の病の視点から、イエスは神でないとしか考えられず、
それに従って聖書を歪ませ、
教会を精神治療センターに変えるのが夢であると公言している。
そして自分はその王として崇められたいのである。
 
少なくとも聖書から見て、
これは最大級の罪である。

2009年4月22日 (水)

聖書も神の力も知らない 22

自分を愛しているということのついでに言うと、
この人は権威に弱い。
権威ある人に褒められると、
それはそれははしゃぐ。
そして、その権威が欲しいものだから、
神学の学位が取りたかったようである。
しかし、何年通っても、ダメだった。
自由主義的な神学を掲げる教授からも、
「それはキリスト教とはあまりに違いすぎる」と
認められなかったのである。
これはショックだっただろう。
ついに、自分がなりふり構わずやったところで
どうにもならない壁に当たったのである。
しかし、そんなものにこだわることもないだろう。
自分を守るためには、そんなことは早く忘れたほうがいい。
そう自分に言い聞かせているはずである。
 
そこで、奉仕をますます命じ、
教会堂を大きくするほうを実現する方向に変わり、
そのためにますます「敵」を許す自分の姿を植え付けようとする。
自分は聖書的である、と宣伝したい一心なのである。
これまた、聖書を深く学ばない人々には、もっともらしく見えるものだ。
聖書を知らない、というのみならず、こうなると、
聖書に反する、と言ったほうがよいだろう。
聖書でないものを、
聖書だと言って宣伝しているのであるから。
そして、人間関係を重んじたい信徒たちもまた、
信仰をねじ曲げられていくし、
彼らに大きな罪を犯させていく。
イゼベルを放置してしまい、
彼らもまた、キリストならぬものをキリストだと偽装宣伝していくのである。

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